ジャータカ朗読会
《あらすじ》
菩薩は、ある地方の行商でした。ある時、菩薩は、欲深い行商と共に商売に行くこととなりました。二人は街を二分し、互いの縄張りを決めて、それぞれ自分の受け持ち区域で行商を始めました。
その頃、この街に、今は古びた豪邸に一人残された娘が祖母と二人で貧しく暮らしていました。欲深い行商は、その家の戸口を訪れ、「最新のアクセサリーはいりませんか、美しいアクセサリーですよ」と声をかけました。娘は新しいアクセサリーがとてもほしくなりました。祖母は欲深い商人を家に呼び入れ、お椀を見せて、「この娘にアクセサリーを買ってあげたいのだけれど、これを下取りにしてもらうわけにはいきませんか?」と頼みました。お椀の底を針で傷つけ純金製だと知った商人は、「これは大したお宝だ。俺にはとてもこのお椀を下取りできる金はない。しかし、こいつらはこれの値打ちをまったく知らないらしい。うまくだまして二束三文で手に入れてやろう」とたくらみ、「こんな安物のお椀なんか半マーサカにもならないよ」とわざとお椀を放り出して家を出て行きました。
ちょうどそこに菩薩が通りかかり、連れの商人が家を出て行くのを見かけました。自分の受け持ち区域以外のところでも一度担当のものが出て行った家を訪れるのはかまわないので、菩薩は、「アクセサリーはいりませんか」と言いながら、その家の門を入って行きました。娘は菩薩を家に呼び入れ、祖母は先ほどのお椀を彼に見せました。菩薩はすぐにそれが黄金でできていることに気づき、「これはすばらしいお椀だ。おばあさん、これは十万カハーバナもの値打ちの純金製の品物です。これほどのものを買い取るお金は私の手元にはありません」と二人に告げました。祖母は、「このお椀はあなたの徳によって黄金製になったのでしょう。これはあなたにふさわしいものなのだから、これを下取りにして、何でもいいから私たちに置いていってください」と言って、お椀を菩薩に渡しました。
菩薩は、帰路のためのお金を引いて、残りの所持金をすべて二人に差し出し、手に持っていたアクセサリーも全部娘に渡して家を出ました。そして急ぎ足で川岸に向かうと、船頭にすぐに船を出させました。
しばらくたってから、欲深な商人が祖母と娘の家に来ました。二人は「あの後で正直な商人が来て、私たちにお金と品物を渡してあのお椀を持っていきましたよ」と言いました。
欲深な商人は大変なショックを受け、「何ということだ、黄金の器を得損ねた。大失敗だ、大損だ」と歯ぎしりして悔やみ、気がふれたようになって上着を脱ぎ捨て、自分の持っていた品物やお金を戸口にまき散らして、秤棒を振り上げ、菩薩の後を追いかけて全速力で川岸へと走りました。
遠くに走り去る船を見た欲深な商人は、「船を戻せー、船を戻せー」と大声で何度も叫びましたが、後の祭りでした。商人は船がどんどん離れていくのを見ながらあまりにも悲憤の情が高まり、口から血を吐き、心臓が破れて死んでしまいました。
3. Serivāṇi jātakaセーリヴァの商人
【現在の物語】 これは、シャカムニブッダがコーサラ国のサーワッティ(舎衛城)近郊の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。
サーワッティの良家の息子が釈尊の説法を聴いて信心を起こし、諸欲は厭うべきものであることを観て出家しました。彼は具足戒を受けるために五年間沙弥として学び、法と戒律について教義要目を習得し、ヴィパッサナー冥想を習い、仏のもとで自分にふさわしい冥想法を教わってから、修行の完成のために森に入りました。
比丘は、雨安居の三ヶ月間、懸命に精進努力しました。しかし、悟りの兆しはまったく現れず、そのわずかな兆候さえも見出せませんでした。彼は、「仏陀が、①少しの法を聞いただけで悟る者、②多くの法を聞いて悟る者、③悟るために指導を必要とする者、④経典の暗記を最上とする者、という四種の人がいると説かれたのを聴いたことがある。たぶん私は最低の四番目の人間なのだ」と悲観し、「そういう自分が森に入ってどうしようというのだ。ここにいても私など、仏の悟りの道も果も得られないに決まっている。私は森から出て仏陀の近くに戻ろう。仏の秀麗なお姿を拝し、甘露のごとき法を聞きながら暮らそう」と考えて、祇園精舎に戻りました。
彼の親しい友人たちが、「友よ、君は仏陀の指導のもとに冥想を学び、沙門の務めをやり遂げる決意で森に入ったのだろう。こんなところで皆と楽しく談笑しているのはどういうわけだ」と訊きました。比丘は、「私はがんばっても、悟りの道も果もさっぱり得られない。自分は無能だとわかったのだ。だからもう精進努力はあきらめて帰って来たよ」と答えました。友人たちは、「友よ、固い精進の決意で仏の教えのもとに出家しながら、その精進を捨てるというのか。今すぐに如来に会って、お話しした方がいい」と言って、彼を釈尊のところに連れて行きました。
お釈迦さまが「比丘らよ、なぜこの比丘を無理に連れてきたのか」と尋ねられたので、友人の比丘たちが「世尊、彼は精進の心を捨てて、森を出て帰ってきました」とお答えしました。釈尊はそれが事実かどうか本人に確かめられてから、「比丘よ、君は、悟りの道と果をもたらす教えのもとで出家しながら、精進努力を捨てるという。そんなことをしたら、君は、十万金の黄金のお椀を失ったセーリヴァ商人のように、永く悲しむことになるだろう」とおっしゃいました。比丘たちが、その言葉の意味を教えてくださるようにと釈尊にお願いしたところ、お釈迦さまは過去の話を話されました。 【過去の物語】
昔々、今から五劫(五宇宙)も遡った頃のお話です。その頃、菩薩は、ある地方の行商でした。そちらにはもう一人、欲が深くて愚か者の行商がいました。ある時、菩薩は、欲深い行商と共に商売に行くこととなり、ラーラワーハ河を渡ってアヌダプラという街に着きました。二人は街を二分し、互いの縄張りを決めて、それぞれ自分の受け持ち区域で行商を始めました。
その頃、この街に、主人夫婦や息子たちが相次いで亡くなり、落ちぶれてしまった元豪商の家がありました。今は古びた豪邸に一人残された娘が、もう一人の生き残りである祖母と二人で貧しく暮らしていました。
欲深い行商は、品物を売り歩きながらその家の戸口を訪れ、「最新のアクセサリーはいりませんか、美しいアクセサリーですよ」と声をかけました。娘は新しいアクセサリーがとてもほしくなりました。「おばあさん、私にもひとつ買ってくださいな」「買ってあげたいけれど、うちにはお金がないのよ」「おばあさん、お父さんが大事にしていたお椀があったでしょう。あれで何とかならないかしら」。娘は埃だらけのお椀を戸棚から出してきました。実は、そのお椀は純金製の、大変な値打ちの品だったのです。しかし二人とも、そのことは全く知りませんでした。
祖母は欲深い商人を家に呼び入れ、お椀を見せて、「この娘にアクセサリーを買ってあげたいのだけれど、これを下取りにしてもらうわけにはいきませんか?」と頼みました。お椀を手に取った商人は、すぐに、それが大変な値打ちものだと気づきました。お椀の底を針で傷つけ純金製だと知った商人は、「これは大したお宝だ。俺にはとてもこのお椀を下取りできる金はない。しかし、こいつらはこれの値打ちをまったく知らないらしい。うまくだまして二束三文で手に入れてやろう」とたくらみ、「こんな安物のお椀なんか半マーサカにもならないよ」とわざとお椀を放り出して家を出て行きました。
ちょうどそこに菩薩が通りかかり、連れの商人が家を出て行くのを見かけました。自分の受け持ち区域以外のところでも一度担当のものが出て行った家を訪れるのはかまわないので、菩薩は、「アクセサリーはいりませんか」と言いながら、その家の門を入って行きました。
娘はもう一度、「おばあさん、ひとつ買ってください」と頼みました。「そうねえ。だけどあのお椀はなんの値打ちもないそうだし、どうしようかねえ」「さっきの人は乱暴で感じが悪かったけれど、今度の人は優しそうなとても感じのいい人だから、もう一度頼んでみてください」「では、家に入ってもらいなさい」。娘は菩薩を家に呼び入れ、祖母は先ほどのお椀を彼に見せました。菩薩はすぐにそれが黄金でできていることに気づき、「これはすばらしいお椀だ。おばあさん、これは十万カハーバナもの値打ちの純金製の品物です。これほどのものを買い取るお金は私の手元にはありません」と二人に告げました。祖母は、「まあ、そうですか。先ほど来た人は、こんなものは半マーサカの値打ちもないと言って、投げ捨てていったのですよ。このお椀はあなたの徳によって黄金製になったのでしょう。これはあなたにふさわしいものなのだから、これを下取りにして、何でもいいから私たちに置いていってください」と言って、お椀を菩薩に渡しました。
菩薩は、帰路のための八カハーバナを引いて、残りの所持金である五百カハーバナをすべて二人に差し出し、手に持っていた五百カハーバナの値打ちのアクセサリーを全部娘に渡して家を出ました。そして急ぎ足で川岸に向かうと、船頭に八カハーバナを与えてすぐに船を出させました。
しばらくたってから、欲深な商人が祖母と娘の家に来て、「かわいそうだからあの安物のお椀を下取りにして、何かひとつアクセサリーをあげようと思って戻ってきたのだ。あのお椀を出しなさい」と威張って言いました。二人は、「あなたは十万金の価値のある黄金のお椀に、半マーサカの値もつけなかったでしょう。あの後で正直な商人が来て、私たちに五百金と五百金分の品物を渡してあのお椀を持っていきましたよ」と言いました。
欲深な商人は大変なショックを受け、「何ということだ、十万金の値打ちのある黄金の器を得損ねた。大失敗だ、大損だ」と歯ぎしりして悔やみ、気がふれたようになって上着を脱ぎ捨て、自分の持っていた品物やお金を戸口にまき散らして、秤棒を振り上げ、菩薩の後を追いかけて全速力で川岸へと走りました。
遠くに走り去る船を見た欲深な商人は、「船を戻せー、船を戻せー」と大声で何度も叫びましたが、後の祭りでした。商人は船がどんどん離れていくのを見ながらあまりにも悲憤の情が高まり、口から血を吐き、心臓が破れて死んでしまいました。これがデーヴァダッタが菩薩に対して抱いた最初の恨みだということです。その後、菩薩は布施などの善行をし、その業に従って生まれ変わっていきました。 【現在の物語と過去の物語のつながり】
お釈迦さまは過去の話を終えられ、詩句を唱えられました。 3. Idha ce hi naṃ virādhesi, saddhammassa niyāmataṃ; Ciraṃ tvaṃ anutapessasi, serivāyaṃva vāṇijoti. ここで、もし、人が目先の利益を求め 真理の道を踏み外すならば 彼は永きにわたり苦難に陥る セーリヴァという商人のように その後、仏陀が四つの真理を説かれると、それを聴いた精進努力を捨てようとした比丘は阿羅漢の悟りを開きました。釈尊は「その時の愚かな商人はデーヴァダッタであり、賢い商人は私だった」と言われ、話を終えられました。
【この物語の教訓】 デーヴァダッタがお釈迦さまに攻撃する気持ちになった理由として、このジャータカ物語は有名です。この二人の商人は同じ品物を売っていたのです。一日中歩きまわって、品物を売るのです。ですから、二人で村に入ったら、歩きまわる区域を分けたのです。他人の区域に入って商売しないことにしたのです。結局、菩薩はデーヴァダッタの区域で商売をしたのです。デーヴァダッタが、これは約束違反だと思ったのです。菩薩の言い分は、「あなたが商売を終えたところなので、誰の区域でもなく自由な区域になるのです」というものです。デーヴァダッタは、商売を終えたのではなく、後で引き返して商売する気持ちでいたのです。ですから、自由区域とは言えないのです。このポイントは、どちらが正しいとも言えないところです。このように、仏教でエピソードを書く場合は、怒り憎しみを除けて、善玉悪玉役を設定するのです。
破産した元富豪の家に、貧困に陥った孫娘と祖母が住んでいました。その家にぜんぜん役に立たないお椀一つがあったのです。父が使っていたお椀でしたので、それは処分しなかったのです。何の値打もないと思っていたのです。そこで、自分の利益のみを考える世間常識の人は、そのお椀を何の値打もないとけなす。世間の常識と違った、真理を語る、人をだます気持ちがない正直者は、あえてそのお椀の値打ちを打ち明ける。
我々が生きるこの世界は、何の値打もないものに高い値札を付けて、人々をだまして利益を得ているのです。我々は金を儲けるために、高価な品物を買うために、名誉を得るために、社会の地位を得るために、必死になっているが結局はだまされているのです。そのようなものを得たとしても、何の意味もないのです。幸福にもならないのです。ブランド製品に目がないという人も、結局は世間にだまされているだけです。借金してブランド品を買うことで、自己破産に陥ってしまうこともあるのです。
仏教は古ぼけて煤けた、値打ちのない面白くもない生きる道のように見えてしまうのです。世間のすべての人々が評価する道とは違う道を説くから、そのような気持ちになることも避けられないのです。しかし仏教という古ぼけたお椀を手に取ってみると、重さは感じるはずです。指で煤をぬぐってみれば、純金であることをいとも簡単に発見できるはずです。
仏教を実践しようとすると、商売繁盛、現世利益のみを謳っている宗教と違って、損をする道を選んだのではないかと錯覚するかもしれませんが、仏道は確実に幸福になる道なのです。一日二日くらい挑戦してみても、その事実を確かめることができるのです。
【記事の作成にあたっては、日本テーラワーダ仏教協会ホームページ「法話と解説 ジャータカ物語」のスマナサーラ長老によるジャータカの説法を使用させて頂きました。】No.112(2009年4月号)セーリヴァ商人物語Serivāṇi jātaka(No.3)https://j-theravada.com/jataka/jataka112/