ジャータカ朗読会

《あらすじ》
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はカーシ国の、ある大富豪のバラモンの家に生まれました。俗世間を捨て去って出家生活に入り、ヒマラヤ地方で暮らしていました。
あるとき彼は塩や酢を求めてヒマラヤ山から降りバーラーナシーに行き、王宮の門に到着しました。王様は彼の立ち居振る舞いを好ましく思い、彼を招いておいしい食べ物をご馳走し彼に、ここに住んでくれるように懇願しました。彼は承諾して、その後はいつも宮中で食事をとり、王家の人々に教えを説きながら、十六年間そこに住みました。
あるとき、王は国境で起こった反乱を鎮圧するために出陣することになりましたが、そのとき「ムドゥラッカナー(柔かな姿)」という名前の王妃に対し「心を尽くして仙人に仕えなさい」と言い残してでかけました。
ある日、ムドゥラッカナー王妃は、よい香りの付いた水で沐浴をし、美しく着飾ってから広間へ小さな寝台を用意させ、仙人の来訪を待っていました。
仙人が空中を飛行して窓から入って来た時、王妃があわてて起き上がったために絹の上衣が滑り落ちてしまい、彼は王妃の美しい体を、瞑想の修習をつい忘れ、じっと眺めてしまいました。すると彼の心の中に動揺がわきおこり、彼は立ったままで食べ物を受け取りましたが、少しも口をつけられず、遊園に帰りました。そして自分の草庵に入ると、異性の体に心を縛り付けられ、七日のあいだ寝込んでしまいました。
国境での反乱を鎮圧した国王は七日目に王宮に帰ってきました。王は遊園に出掛け草庵を訪ねましたが、彼が横たわっているのを見て「尊者よ、御病気でしょうか」とたずねました。王は尊者の心がムドゥラッカナーに魅せられてしまったのを知り、「よろしい尊者よ、ムドゥラッカナーはあなたに差し上げましょう」と言って、美しく着飾らせた王妃を仙人に与えました。
王はそのときひそかに王妃に「お前は自分の力で尊者を守るように努めなければならない」と指示を与えました。王妃は「わかりました王様、私はあの方をお守りします」と自分の使命を了解しました。
王妃は「尊者よ、私達の住む家を一軒、王に要求して下さい」と言ったので、仙人は王に家を要求しました。王妃は仙人に与えられた廃屋を綺麗になるよう汚物とガラクタを捨てさせ、牛糞を運ばせて壁に塗りこめさせました。寝椅子、腰掛け、敷物、壷、瓶を運びなさいと何度も何度も命令をしながら、ひとつひとつを運ばせました。さらに王妃は彼に命じて、瓶を使って水を運ばせ、壷を満たして水浴の用意をさせ、寝床を敷かせました。
そして彼らが一緒に寝床に坐ろうとしたときに、王妃は仙人の鬚をつかんで「あなたは自分が修行者であり、バラモンであることを忘れてしまったのですか!」と言って、自分の方へ仙人の顔をぐっと引き寄せました。
そのとき彼は正気を取り戻しました。それまでのあいだ、彼は無智なものになっていたのでした。
正気を取り戻した彼はこう考えました。「この愛執は増大すれば、私を四悪趣(畜生・餓鬼・修羅・地獄)に堕とし、頭をあげることも出来なくさせる。いまこそ私はこの王妃を王に返し、ヒマラヤ山に入るべきである」と。
彼は彼女を連れて王のところへ行き「大王よ、私にはあなたの王妃はもう必要ありません。私には愛執が増大するだけのことでした」と言って、次の詩句を唱えました。
ムドゥラッカナーを得る前には
欲望はただ一つだけであった
つぶらな瞳の彼女を得てからは
欲望が欲望を生むことになった
そのとき菩薩である仙人は、かつての神通や禅定を取り戻し、天空に坐って説法をして王に訓戒を授け、ヒマラヤ山に向かって飛行して行き、二度と再び人里へは出て来ませんでした。
その後彼は、清浄な行を修め禅定を失うこともなく、遂に梵天界に生まれました。
066 Mudulakkhaṇa jātakaムドゥラッカナー
【現在の物語】
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、欲情についてお説きになっものです。
サーヴァッティに住むある良家の息子が、お釈迦さまの説法を聞き、三宝に帰依して出家しました。彼は、仏道を実践し、修行に励み、瞑想の修習を怠ることはありませんでした。
ところがある日、サーヴァッティで托鉢をしているとき、一人の美しく着飾った女性を見て、瞑想の修習をつい忘れ、「美しい」とじっと眺めてしまいました※1。そのとき彼の心の中に動揺が湧きおこり、樹液を蓄えた樹を斧で切りつけたように、煩悩が湧き出してきました。彼はそれ以来欲情の虜になり、身体の安らぎも心の安らぎも感じることはなくなりました。(人家に)迷ってきた野獣のように、仏道に興味がなくなり、髪の毛や爪も伸びたまま、まとった衣も汚れたままになってしまいました。
彼の立ち居振舞いの乱れを見た仲間の比丘達は「友よ、君の振る舞いは以前とまったく変わったようですが、どうしたのですか」とたずねました。彼は「友らよ、私は修行に魅力を感じなくなりました。」と答えたので、比丘達は彼をお釈迦さまのもとへ連れて行きました。
お釈迦さまは「比丘達よ、どうしてあなた方は無理にこの比丘を連れて来たのか」とたずねられました。「尊師よ、この比丘は修行に興味を失いました。」お釈迦さまはその比丘本人に「比丘よ、それは本当か」とたずねました。「本当です」「だれがあなたをそうさせたのか」「尊師よ、私は托鉢中に冥想の修習を忘れ、一人の女性を『美しい』とじっと眺めてしまいました。そのとき私に欲情がわきおこり、そのために私は修行に魅力を感じられなくなりました」
そこでお釈迦さまは彼に言われました。
「比丘よ、それは不思議ではありません。異性を、瞑想修習の見方を忘れて『美しい』と眺めるならば、煩悩が湧き起こるのです。
昔、五つの神通と八つの禅定を得て、禅定の力によって煩悩を退け※2、清浄な心を持ち、空を飛行することもできた菩薩でさえ、感官の自制を失って異性を眺めたために、禅定を失い、欲情にかられて大きな苦悩を味わうことになりました。
というのは、例えば須彌山を覆すほどの大風が吹けば、象ほどの小さな禿山はひとたまりもない。巨大なジャンブ樹を根こそぎにするような大風が吹けば、崖に生えた小さな潅木は耐えきれない。大海を干乾びさせるほどの大風には、小さな池など相手にはならない。それと同じ様に、最高の智慧をもち、心の清らかな菩薩たちさえも無智な状態にしてしまうほどの強い欲情には、あなたなど、ひとたまりもないのだから、そのことを恥じることはないのです。
心の清らかな者たちでも、欲情を起こすことがあり、最高の名声を得た者たちでも、恥をかくことはあるのです」と言って、過去のことを話されました。
【過去の物語】
その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はカーシ国の、ある大富豪のバラモンの家に生まれました。
分別のある年頃になると、あらゆる学芸に熟達し、やがて俗世間を捨て去って出家生活に入り、瞑想を修習し、五つの神通と八つの禅定を得て、禅定の楽を享受しつつヒマラヤ地方で暮らしていました。
あるとき彼は塩や酢を求めてヒマラヤ山から降りバーラーナシーに行き、王家の遊園に一泊しました。翌日彼は身なりを整えて、樹皮で出来た褐色の衣を身に纏い、一方の肩にはカモシカの皮をかけ、髪を丸く束ねて、荷物を担ぐ棒を携え、バーラーナシーを托鉢して廻るうちに王宮の門に到着しました。
王様は彼の立ち居振る舞いを好ましく思い、彼を招いておいしい硬軟の食べ物をご馳走して満足させ、彼が礼を述べたときに、ここに住んでくれるように懇願しました。彼は承諾して、その後はいつも宮中で食事をとり、王家の人々に教えを説きながら、十六年間そこに住みました。
さて、ある日、王は国境で起こった反乱を鎮圧するために出陣することになりましたが、そのとき「ムドゥラッカナー(優相)」という名前の王妃に対し「心を尽くして仙人に仕えなさい」と言い残して、出征の途につきました。王が出立して以降、菩薩である仙人は、自分の気が向いた時刻に王宮に出掛けるようになりました。
そんなある日のこと、ムドゥラッカナー王妃は、菩薩である仙人のための食事を用意させておいてから「今日は尊者の帰りが遅いわね」と思いながら、よい香りの付いた水で沐浴をし、美しく着飾ってから広間へ小さな寝台を用意させ、仙人の来訪を待っていました。仙人もまた時間が遅くなったのに気が着いて、禅定から出ると、空中を飛行して王宮へ向かいました。
王妃は樹皮の衣の音を聞いて「尊者が来られたわ」と急いで起き上がりましたが、彼女があわてて急に起き上がったために絹の上衣が滑り落ちてしまいました。丁度そのとき仙人が窓から入って来ましたが、彼は王妃の美しい体を、瞑想の修習をつい忘れ、じっと眺めてしまいました。
すると彼の心の中に動揺がわきおこり、樹液を蓄えた樹を斧で切りつけたように、煩悩が湧き出してきました。たちまち彼の禅定の力は消滅し、翼を切り落とされた鳥のようになってしまいました。
彼は立ったままで食べ物を受け取りましたが、少しも口をつけられず、欲情にかられながら宮中から退き、遊園に帰りました。そして自分の草庵に入ると、寝台の下に食べ物を放置したまま、異性の体に心を縛り付けられ、煩悩の炎に焼かれながら飲まず食わずの状態で憔悴し、七日のあいだ寝込んでしまいました。
国境での反乱を鎮圧した国王は七日目に帰還し、都を右回りに廻って王宮に帰ってきました。王は「尊者に会おう」と遊園に出掛け草庵を訪ねましたが、彼が横たわっているのを見て「きっとなにかの病気にかかられたのだろう」と思い、草庵を家来に掃除させてから、彼の足に頭をつけて
「尊者よ、御病気でしょうか」とたずねました。
「大王よ、私は別に病気ではありません。欲情のために心が魅せられてしまったのです」
「尊者よ、あなたの心は何に魅せられてしまったのですか」
「ムドゥラッカナーに対してです大王よ」
大王は「よろしい尊者よ、ムドゥラッカナーはあなたに差し上げましょう」と言って、美しく着飾らせた王妃を仙人に与えましたが、そのときひそかに王妃に「お前は自分の力で尊者を守るように努めなければならない」と指示を与えました。王妃は「わかりました王様、私はあの方をお守りします」と自分の使命を了解しました。
仙人は王妃を貰い受けると王宮から退出し、大門から出ようとしましたが、そのとき王妃が「尊者よ、私達の住む家を一軒、王に要求して下さい」と言ったので、仙人は王のところに舞い戻って行き、家を要求しました。
王は人々が便所として使っていた廃屋を与えたので、仙人は王妃を連れてそこへ行きましたが、彼女はそこに入ろうとはしません。
「何故入らないのですか」
「汚いからです」
「ではどうすればよいのですか」
「綺麗になるように手入れをして下さい」
ということで、王妃は「さあ鍬を持ってきなさい。籠も持ってきなさい」と、また仙人を王のところに行かせ、汚物とガラクタを捨てさせ、牛糞を運ばせて壁に塗りこめさせました。
それが済むとまたまた仙人を王のところに行かせ「さあ寝椅子を運びなさい。次は腰掛けを運びなさい。次は敷物。今度は壷を運びなさい。瓶を運びなさい」と何度も何度も命令をしながら、ひとつひとつを運ばせました。さらに王妃は彼に命じて、瓶を使って水を運ばせ、壷を満たして水浴の用意をさせ、寝床を敷かせました。
そして彼らが一緒に寝床に坐ろうとしたときに、王妃は仙人の鬚をつかんで
「あなたは自分が修行者であり、バラモンであることを忘れてしまったのですか!」
と言って、自分の方へ仙人の顔をぐっと引き寄せました。
そのとき彼は正気を取り戻しました。それまでのあいだ、彼は無智なものになっていたのでした。正気を取り戻した彼はこう考えました。「この愛執は増大すれば、私を四悪趣(畜生・餓鬼・修羅・地獄)に堕とし、頭をあげることも出来なくさせる。いまこそ私はこの王妃を王に返し、ヒマラヤ山に入るべきである」と。
彼は彼女を連れて王のところへ行き「大王よ、私にはあなたの王妃はもう必要ありません。私には愛執が増大するだけのことでした」と言って、次の詩句を唱えました。
ムドゥラッカナーを得る前には
欲望はただ一つだけであった
つぶらな瞳の彼女を得てからは
欲望が欲望を生むことになった
そのとき菩薩である仙人は、かつての神通や禅定を取り戻し、天空に坐って説法をして王に訓戒を授け、ヒマラヤ山に向かって飛行して行き、二度と再び人里へは出て来ませんでした。その後彼は、清浄な行を修め禅定を失うこともなく、遂に梵天界に生まれました。
【現在の物語と過去の物語のつながり】
お釈迦さまは、この話を終えると「四聖諦」を解き明かされ、それを聞いたかの悩める比丘は、預流果の悟りに達しました。
そしてお釈迦さまは、過去と現在を結び付けられて「そのときの王はアーナンダであり、王妃はウッパラヴァンナー、そして仙人は実に私であった」と説かれました。
【この物語の教訓】
※1 「美しい」とじっと眺めてしまいました。
仏教では、不浄随念という瞑想方法があります。出家修行者の場合は、心を清らかにするために、諸々の欲を退ける瞑想法を実践していきます。どんな人にも異性に対する欲は生まれますが、異性の身体を見て「綺麗だ」「美しい」とは決して思わず、そのかわりに「不浄なものだ」と観察するのが不浄観の瞑想のやり方です。この物語の比丘はその修行を怠ってしまったのです。
自分の身体も人の身体も「不浄だ、汚いものだ」と念ずることは、よくないと思う人々もいるでしょう。寝たきりの老人や痴呆の人々の介護をしたり、身体の不自由な病人のケアをしたりする場合に、障壁になるのでは? という疑念が生じるのかもしれません。人の身体を「不浄だ、汚い」と思うと、介護が苦痛になる…と考えてしまうのでしょうか。不浄観の場合は、身体というものは、心臓・腎臓・大便・小便などの三十二種類の不浄な要素で構成されていて、綺麗に見えるのは表面的であって幻覚であるということを観察します。ですから実際には、「心臓は汚い」というよりも「心臓は欲を抱く対象ではない」という智慧が生まれ、そのことが不浄観の瞑想の目的になります。このように観ることが出来れば、介護をする場合でも「綺麗」でも「汚い」でもどちらでもなく、ただ単に「便である」「よだれである」などと客観的に観て、嫌悪感や不快感もなく仕事をすることが出来るのです。
仏教は、看病、介護、年上の人々の面倒を見ることは、強く奨励しています。そういうことは、賞賛に値するような特別なことではなく、誰でもやらなければならない道徳的な行為です。
※2 五つの神通と八つの禅定を得て、禅定の力によって煩悩を退け…
右記の不浄随念や呼吸随念などの瞑想をしていくと、心の統一された状態を作ることが出来ますが、その状態のことを禅定といいます。禅定というのは、心の中の煩悩が退けられ機能しなくなった状態(完全に消えるわけではなく、観察能力によって煩悩が機能しなくなる)で、心が清らかになった状態です。それには段階があり、八つのステップがあります。心が汚れていると、人間の能力にはおのずと限界があります。人間は肉体を中心に考え、心よりも身体を大事にしていますが、そうした身体に依存した状態(身体の奴隷になっている状態)から離れて、清らかな心を作ると、普通の人間には想像もできないような能力が身につきます。それが「神通」で、神変・天耳界智・他心智・宿住随念智・死生智の五つがあります。
人は自分の願望について、「これさえあれば…」「あれさえあれば…」幸せだと、単純に考えていますが、欲望とは、そう簡単に満たされるものではありません。欲しいものを手に入れたり、望みが叶ったりしても、今度はそれに関連して次から次へと新しい欲望が湧いてくるものです。「これさえあれば、ほかには何も要りません」ということは、生きている上では決してありえない話です。美しいもの、楽しいもの、欲しいものなどは、たまたま容易に得ることができたとしても、そこから享受する喜びや嬉しい気分より、その背後でじわじわと増大する苦悩の方が大きいのです。
【記事の作成にあたっては、日本テーラワーダ仏教協会ホームページ「法話と解説 ジャータカ物語」を使用させて頂きました。No.15(『ヴィパッサナー通信』2001年3, 4号)王妃とバラモンの話①②No.6, 7 https://j-theravada.com/jataka/jataka015/ 監修 アルボムッレ ・スマナサーラ長老 編集 高橋清次】
For the Sake of Desire | Mudulakkhana Jataka | Animated Buddhist Storiesも参照ください。https://www.youtube.com/watch?v=v4cTbWvbpHU&ab_channel=watsanfran