ジャータカ朗読会
《あらすじ》
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はある雌牛のお胎に生を受けました。その頃、菩薩の持ち主は牛の群れを連れて旅をしており、菩薩は生まれてすぐに旅費の代わりに宿泊先の老婆に与えられました。老婆は菩薩に乳粥などの滋養ある食べ物を与え、我が子のようにかわいがって育てました。仔牛は炭のように真っ黒だったので、アッヤカーカーラカ(お婆さんのクロ坊)と皆に呼ばれました。成長した仔牛は、他の村の牛たちと一緒に歩き回る、賢くて行儀の良い、真っ黒な美しい牛になりました。村の子供たちは、菩薩を見かけると、「お婆さんのクロ坊だ」と喜んでやって来て、角や首にぶらさがったり、背中に乗ったりして遊びました。
菩薩は、「私の母さんは、貧乏でお金がない中、私を実の我が子のように、苦労しながら愛情をもって育ててくれた。私はお金を稼いで、母さんに楽をさせよう」と考えました。それ以来、菩薩は、何かよい仕事はないかと気をつけて、探していました。
ある日、五百もの荷車を牽いた隊商が、村にやって来ました。彼らがでこぼこした河の渡し場にさしかかったところ、彼らの牛たちは荷車を牽いて河を渡ることができず、行列は止まってしまいました。隊商主がどうしたものかと思案していると、立派な黒牛が歩いているのが目に入りました。彼は牛の目利きであり、黒牛の力が一目でわかりました。
隊商主は、牛が自分の仕事にそれ相応の賃金を求めていることがわかりました。そこで彼は牛に向かって、「私は君を雇いたい。五百の荷車を牽いて河を渡してくれたなら、一車につき2カハーバナの賃金を支払おう。全部で1,000カハーバナの仕事ということになるが、どうだろう」と告げました。自分の仕事に相応の賃金が定められたと納得した菩薩は、荷車の方に歩き出しました。人々は次々と荷車を黒牛の背中につなぎ、黒牛は休みなく荷車を牽いて河を渡し、自分ひとりですべての仕事をなし終えました。
隊商主は、布に1,000カハーバナを包み、「約束通りの君の賃金だよ」と言いながら牛の首に結びました。すると黒牛は、何事もなかったように道を空け、家に向かって歩き出しました。家に帰る途中、子供たちが、「お婆さんのクロ坊だ。何か首に結んでいるよ。なんだろう」と言って近寄ってきました。しかし黒牛は、いつもと違って、子供たちを一人も自分の近くに寄せ付けませんでした。
家に戻ったとき、過酷な労働で一日を過ごした菩薩は、目を真っ赤に充血させ、汚れて疲れ切っていました。老婆は、菩薩が首に1,000カハーバナもの大金を結んでいるのを見て、「あらまあ、おまえはいったいどこでこんな大金を手に入れたの」と驚いて、牛飼いたちに事情を尋ねました。菩薩が大金を得たいきさつを知った老婆は、「まあまあ、私がおまえにそんな苦しい仕事をさせて食べようなどと思うものかね。どうしてそんな苦しいことをしたの」と声をかけながら、菩薩をお湯で洗い、体に香油を塗り、おいしい食事や飲み物を与えました。
その後、老婆と菩薩は仲良く暮らし、寿命が尽きるとそれぞれ自分の業に従って生まれ変わっていきました。
029. Kaṇha jātakaカンハ
【現在の物語】 ある時、ピンドーラ・バーラドヴァージャ(賓頭盧/びんずる)長老が、王舎城の商人の挑戦を受けて多くの人々の前で神通力を顕し、高い竹の上に付けられた黒檀の鉢を取ったことがありました。そのことを知った釈尊は長老をお叱りになり、今後は人々の前で神通力を見せてはならないという戒律を定められました。 それを聞いた外道の師匠たちは、「沙門ゴータマは、もう人々の前で神通力を見せることはないのだろう」と考え、「先生はなぜ神通力で鉢を取られなかったのですか?」と問う弟子たちに、「あのくらいの神通力を見せることは簡単なことだ。だが、あんな鉢を得るために自分の繊細で微妙な力を大衆に見せて何になるだろう。釈迦族の沙門たちは貪欲で愚かだから、あんなことで奇跡を見せたのだ。我々に力がないから鉢を取らなかったわけではない。我々は、沙門ゴータマが挑戦を受けるなら、喜んで神通の力比べをしよう。そうすれば、ゴータマの神通の倍の奇跡を見せてやることだろう」と豪語し、仏陀に挑戦しました。 この話を聞いたビンビサーラ王は、お釈迦さまを訪問し、皆の前で外道の師匠たちと共に神通力を見せていただけるかお訊きしました。釈尊は承諾されました。「しかし、世尊は神通を人々に見せることを禁ずる戒を定められたと聞いております。そのことは大丈夫でしょうか?」「大王よ、戒律とは私が弟子たちに授けるものであり、仏に禁戒はありません。お城の御苑に咲く花や果物を取ってはいけないという規則があったとしても、その規則は王様には関係ないでしょう。それと同じことなのです。」 お釈迦さまに指定された場所(舎衛城の城門近くのガンダマンゴー樹の下)と日にち(雨安居入りの月の満月の日)は王によって国中に広められ、国中から数え切れないほどの人々が集まってきました。外道の師たちも、多くの弟子たちを連れてそちらに集合しました。神々の王、帝釈天は、「世尊が力を顕されるのにふさわしい覆いを造らねばならない」と、十二由旬もの広さのある七宝の覆いを造り、一万世界から大勢の神々が集まりました。当日、釈尊は正覚者として、火と水による驚くべき神通力を顕されました。その場にいた者は圧倒され、多くの人々が信の心を起こしました。それを知った釈尊は空中から降りて仏座に座り、その場で法を説かれました。数知れぬ有情がその法を聴いて、不死の甘露を飲む恩恵を受けたといいます。釈尊は、「過去仏は奇跡を顕した後、どうされたのだろうか」と過去を観て、仏たちが三十三天に滞在されたことを知ると、ご自身も三十三天に昇られました。 その後釈尊は、三十三天で神々に法を説きながら、雨安居の三ヶ月間を過ごされました。雨安居の終わりが近づくと、モッガラーナ長老が三十三天に昇り、釈尊にそのことを告げられました。釈尊は、「サーリプッタはどこにいるのか?」とお尋ねになりました。「世尊、長老は、すばらしい奇跡を見て信心を起こし新たに出家した五百人の修行僧たちと共に、サンカッサで雨安居を過ごしておられます」「では、私は七日後にサンカッサに降りよう。」 その話を聞いて、お釈迦さまが突然消えてしまったと心配していたたくさんの人々が、サンカッサに集まりました。釈尊は、帝釈天が三十三天からサンカッサまで造らせた宝石をちりばめた階段を降りてこられ、サーリプッタ尊者の挨拶を受けられました。釈尊は、サーリプッタ尊者が智慧の第一人者であることを皆に示すための法話を説かれた後、多くの弟子たちを率いて祇園精舎に戻られました。 比丘たちが祇園精舎の法話堂でそれらの出来事を話題にし、「法友よ、如来の偉大さは、他に比類なき最勝たるものだ。神通の力においても、六人の外道の師匠たちは師の足下にも及ばなかった。如来が運ばれる荷を運べる者は、どこにもいない」と、釈尊の威徳を褒め称えていました。そこにお釈迦さまが来られ、彼らの話題をお訊きになって、「比丘らよ、今私が担っている荷を、他の誰が担うことができるだろうか。過去で私が畜生界に生まれた時も、私の運んだ荷を運べる者は誰一人もいなかったように」と言われ、皆に請われるままに過去の話をされました。
【過去の物語】 昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はある雌牛のお胎に生を受けました。その頃、菩薩の持ち主は牛の群れを連れて旅をしており、菩薩は生まれてすぐに旅費の代わりに宿泊先の老婆に与えられました。老婆は菩薩に乳粥などの滋養ある食べ物を与え、我が子のようにかわいがって育てました。仔牛は炭のように真っ黒だったので、アッヤカーカーラカ(お婆さんのクロ坊)と皆に呼ばれました。成長した仔牛は、他の村の牛たちと一緒に歩き回る、賢くて行儀の良い、真っ黒な美しい牛になりました。村の子供たちは、菩薩を見かけると、「お婆さんのクロ坊だ」と喜んでやって来て、角や首にぶらさがったり、背中に乗ったりして遊びました。 菩薩は、「私の母さんは、貧乏でお金がない中、私を実の我が子のように、苦労しながら愛情をもって育ててくれた。私はお金を稼いで、母さんに楽をさせよう」と考えました。それ以来、菩薩は、何かよい仕事はないかと気をつけて、探していました。 ある日、五百もの荷車を牽いた隊商が、村にやって来ました。彼らがでこぼこした河の渡し場にさしかかったところ、彼らの牛たちは荷車を牽いて河を渡ることができず、行列は止まってしまいました。隊商主がどうしたものかと思案していると、立派な黒牛が歩いているのが目に入りました。彼は牛の目利きであり、黒牛の力が一目でわかりました。 隊商主は、「あれはすばらしい生まれの牛だ。あの牛なら、この荷車を牽いて、河を渡すことができるだろう。あの黒牛はいったい誰のものなのだろう」と思い、「あの真っ黒な牛の主人は誰ですか?」と牛飼いたちに尋ねました。「私はあの牛に仕事をさせたいのです。もちろん、それ相応のお金を支払います」。牛飼いたちは「ここには彼の主人はいません。あの牛は自由にしているのだから、好きに使えばいいでしょう」と答えました。 隊商主は黒牛の鼻にひもを付け、引っ張りました。しかし黒牛は、岩のように動きません。「この牛は仕事をしたくないのかな。いや、そうではないだろう」隊商主は、牛が自分の仕事にそれ相応の賃金を求めていることがわかりました。そこで彼は牛に向かって、「私は君を雇いたい。五百の荷車を牽いて河を渡してくれたなら、一車につき2カハーバナの賃金を支払おう。全部で1,000カハーバナの仕事ということになるが、どうだろう」と告げました。自分の仕事に相応の賃金が定められたと納得した菩薩は、荷車の方に歩き出しました。人々は次々と荷車を黒牛の背中につなぎ、黒牛は休みなく荷車を牽いて河を渡し、自分ひとりですべての仕事をなし終えました。 隊商主は、一車につき1カハーバナの賃金で計算した500カハーバナを布に包んで、黒牛の首に結びました。菩薩は、「彼は約束通りの賃金を支払っていない。このまま彼を行かせてはならない」と思い、隊商の通る道を遮って、道をふさいで立ちました。多くの人々が牛をどけようとして、あれこれ手を尽くしましたが、どうしてもどかすことはできませんでした。 隊商主は、「きっと彼は約束通りのお金が支払われてないと知っているのだろう」とわかり、布に1,000カハーバナを包み、「約束通りの君の賃金だよ」と言いながら牛の首に結びました。すると黒牛は、何事もなかったように道を空け、家に向かって歩き出しました。家に帰る途中、子供たちが、「お婆さんのクロ坊だ。何か首に結んでいるよ。なんだろう」と言って近寄ってきました。しかし黒牛は、いつもと違って、子供たちを一人も自分の近くに寄せ付けませんでした。 家に戻ったとき、過酷な労働で一日を過ごした菩薩は、目を真っ赤に充血させ、汚れて疲れ切っていました。老婆は、菩薩が首に1,000カハーバナもの大金を結んでいるのを見て、「あらまあ、おまえはいったいどこでこんな大金を手に入れたの」と驚いて、牛飼いたちに事情を尋ねました。菩薩が大金を得たいきさつを知った老婆は、「まあまあ、私がおまえにそんな苦しい仕事をさせて食べようなどと思うものかね。どうしてそんな苦しいことをしたの」と声をかけながら、菩薩をお湯で洗い、体に香油を塗り、おいしい食事や飲み物を与えました。その後、老婆と菩薩は仲良く暮らし、寿命が尽きるとそれぞれ自分の業に従って生まれ変わっていきました。
【現在の物語と過去の物語のつながり】 お釈迦さまは過去の話を終えられて、次の詩句を唱えられました。 義務は困難であるほどに、 成し難くなるものなり されど成し遂げるべし クロ坊が荷を運んだ如く お釈迦さまは、「比丘たちよ、その時もクロ坊は、その重荷を運んだのだ」とおっしゃって、「その時の老婆はウッパラヴァンナーであり黒牛は私だった」とおっしゃって、話を終えられました。 【この物語の教訓】 お釈迦様が起こした神通は、「yamaka mahā pāṭihāriya」(双大神変)と言います。Yamakaとはペア(双)という意味です。禅定によって、身体から火と水が流れているように見せる神通です。火と水は正反対の性質なので、それに必要な冥想も性質が違うから同時にできません。これを起こすためには二つの冥想で二つの禅定に入らなくてはいけないのです。ふつうなら、火を見せる冥想のできる人に水を見せる冥想はできないはずです。たとえできたとしても、一つの冥想で禅定に入って、それを終えて、またはじめからもう一つの冥想で禅定に入らなくてはいけない。時間がかかる作業となるので、仏教心理学では、火と水を同時に見せるのは実践的に不可能だとしています。しかし正覚者であるブッダには、これができたのです。たとえお釈迦様であっても、まず身体から水が出るように見せて、それから次の禅定に入って身体から火が出るように見せなくてはならないのです。同時にはできません。お釈迦様が、あっという間に禅定に入ることができたので、早業で神通を起こしたのです。それを見た一般人に、身体から火と水が同時に流れているように見えたのだと書かれています。yamaka神通の能力は、ブッダにだけ備わっているのです。 なぜこれぐらいのことを物珍しく記録しているのでしょうか。神通を人に見せることを禁止している仏教が、それにもかかわらず神通の説明に時間を費やすのには、わけがあります。インドは迷信に富んだ国です。仙人たちの祝福や呪いにおびえる人間たちに、何か変なことにかこつけて、自分が聖者だと言いたがる人々がたくさんいたのです。今もいるのです。その問題を、具体的に理性にもとづいて解明したかったのです。仏教が語る神通は、奇跡的な神業の話ではないのです。心理学的な話です。人に錯覚を引き起こすマジック系の催し物とは違うのです。こころを育てて、その力で常識破りのことを行っても、それにはそれなりの法則があるのです。神通では何でもできるとは言わないのです。 例えば「他心通」という神通があります。人のこころを読める能力です。そう言うと、一般人は、読心術だと思うのです。しかし、ドイツ語しか知らない人のこころを日本語しか知らない人に読めるとなると、いったい何語で読んでいるのかと疑問が生じるでしょう。他心通は読心術ではないと釈尊が明確に説くのです。読心術は俗世間で行うマジックの一種です。他心通は、相手のこころの状況を読むのです。例えば、怒りのこころは何語をしゃべる人であっても同じです。他心通とは、そういうこころの変動を明確に読み取る能力で、人を指導する上で必要なものです。迷信ではなく、(仏教)心理学的な能力です。Yamaka神通も同じく心理学的なものですが、これはお釈迦様以外はできないのです。 ジャータカ物語は、私たちに別なメッセージを語っているのです。クロ坊が自分を飼っているお婆ちゃんのことを心配するのです。私たちもペットを我が子のように可愛がって飼っていますが、そのペットは自分のことを親として慕ってくれているでしょうか。私たちのストレスや寂しさをペットがなくしてくれる。しかし、それがペットのストレスになっていないでしょうか。または、あまりにも親(ペット)バカで、ペットの奴隷になってないでしょうか。この物語の仔牛には自由に遊んで生きる権利もありましたし、自分のことを心配して育ててくれる親がいるという実感もあったのです。ペットを飼っている人は、この微妙な状況を理解した方がいいのです。 クロ坊は、自分がただの牛だからといっても、頑としてただ働きはしなかった。それは、ただ働きはよくない、という意味です。人に仕事を頼むなら、それに相応しい報酬をあげなくてはいけないのです。自分の功徳のために奉仕として行うボランティアは、別な話です。ボランティアは、その言葉通り、頼まれたり命令されて奉仕するわけではなく、自分の意志で奉仕するのです。ですから、ボランティアで奉仕する者は、奉仕を受ける人に向って「感謝しなさい、助かっただろう」などと言う権利はないのです。 隊商主がクロ坊の給料をごまかすと、また、クロ坊が頑として抗議したのです。これは、自分が得るべき正当な報酬は堂々と受け取るべきである、という教訓です。世の中で、人をだますことは、稀なことではないどころか、あり過ぎです。仏教徒なら、騙されても泣き寝入りしてはいけないのです。その場合は、「欲はよくない、執着はよくない」などと余計なことを考えたら、いくじなしになるのです。正当な報酬は抗議してでももらうべきなのです。この教訓は、あげる場合も同じです。金を振り込めと言われて、臆病で振り込むものではないのです。相手が我が子だと名乗っても、振り込むための正当な理由と証拠を要求するべきです。振り込めと言われたら振り込んでしまう根性のない人がいるから、詐欺師が商売繁盛するのです。仏教徒は不正な利益を受けない。人にただ働きさせたり搾取したりもしない。布施をしたり悩んでいる人を助けたりはするが、「金をくれ」には応じないのです。 【記事の作成にあたっては、日本テーラワーダ仏教協会ホームページ「法話と解説 ジャータカ物語」を使用させて頂きました。No.113(2009年5月号)黒牛物語Kaṇha jātaka(No.29)(483参照) https://j-theravada.com/jataka/jataka113/ 監修 :アルボムッレ ・スマナサーラ長老 編集 :早川瑞生】